エッセイ

第4章 液状化した地面と、雨に濡れた草

シリーズ序文

宣告された半年は、とうに過ぎた。
なぜ僕はまだ生きているのか。というより、なぜ僕は倒れずにいられたのか。回復力、レジリエンスというやつを、この頃よく考える。
考えてみると、それは薬でも手術でもなかった気がする。もっと前から、僕の中に静かに降り積もっていた何か。若い頃、何に惹かれ、何を学んできたのか。その道筋そのものが、いつのまにか僕を支える骨になっていた。
だからここに、自分の哲学遍歴を、シリーズとして書き残しておくことにした。これは回復とは何かを知りたい、僕自身のための記録でもある。


第4章 液状化した地面と、雨に濡れた草

二〇一九年の話をする。

まず、笑った話から書いておきたい。

診察室のホワイトボードに、先生が絵を描いていた。手術のあと僕の顔がどうなるか、という説明のための絵である。その先生は、さかなクンに少し似ていて、優しくて、そして絵が下手だった。ホワイトボードに現れた僕の未来の顔を見て、隣にいたパートナーが噴き出した。

そういう部屋だった。医者と、看護師と、僕。

がんは、はじめ上顎洞という、鼻の奥の空洞に見つかった。そこに収まっているはずだった。ところが日を追うごとに、肝臓に、背骨に、リンパに、と見つかっていった。

治療方針の説明を聞きながら、僕は、この人たちは迷っている、と感じた。悪い意味ではない。決めきれないものを前にしている人の顔だった。

だからこちらから聞くことにした。

「僕はどのようなことでも、受け止めることができます。だから質問します。僕に残された時間は、どれくらいだと見積もっていますか」

先生は、少し声を落とした。内緒話をするときの声だった。

「治療をがんばったら一年。治療をしなければ半年です」

そして、こう付け足した。

「家族とたくさん話してください」

聞いた瞬間、頭のほうは冷静だった。ふん、そんなこと信じるもんか、と思った。本気でそう思った。

おかしくなったのは、診察室を出てからである。

病院の廊下を歩いていた。まっすぐな、明るい廊下だ。その床が、頼りない。雲の上を歩いているようだった。足が沈むわけではない。ただ、踏んでいるものが、踏んでいるものとして信用できない。

見えているものも、うつろになった。めまいに近いが、めまいではない。回ってはいない。そこにあるはずのものが、あるとも言えない感じで、ただ並んでいる。

あとになって、僕はこう言うようになった。あれは、地面が液状化したのだ、と。

僕の足元には、ずっと軟弱な地盤があった。世界とは何か。意識とは何か。二十歳のころから抱えて、答えを出さないまま、その上に家を建てて暮らしてきた。揺れなければ、埋め立て地の上でも人は暮らせる。

あの日、揺れた。

帰り道のことは、よく覚えていない。

覚えているのは、伝えないでおこう、と決めたことだ。

パートナーには言わなかった。僕を頼っている人に、不安を渡したくなかった。それに、もし僕が死んだとして、その事実を、悲しんだうえで受け止められるようになっていてほしかった。そのための下地を、一年かけて作ろうと思った。

死生観の教育、などと言うと大げさだが、やったことは地味である。人は死ぬ。僕も死ぬ。それは特別な事故ではない。そういう話を、日々の会話のあいだに、少しずつ混ぜていく。それだけだ。

ただ、一年待たずに僕が死ぬ可能性もあった。だから保険をかけた。義母に、全部話しておいたのである。

こういう診断で、こういう告知を受けました。ついては彼女に一年かけて死生観を伝えますので、それまで僕の状態は黙っていてください。もし僕が先に逝った場合は、こんな思いでいた、と伝えてくれればいい。

いま書いていて、ずいぶん勝手なことを頼んだものだと思う。

そして僕は、地盤を固める作業にかかった。

必要だったのは、それまであいまいにしてきたものの定義である。死とは何か。ひいては、人生とは何か。命が天秤に載ったこの機会にこそ、机の上の理屈としてではなく、期限を切られた現実の命として、それを学ぶべきだと思った。

崩れなかったものが、一つだけあった。哲学への憧れである。それだけは液状化しなかった。

最初に手に取ったのは、折口信夫だった。正確には、安藤礼二の『列島祝祭論』を読み、その中で折口に出会った。

なぜ折口だったのか、理由はいくつも挙げられる。文学と学問のあいだを、時代さえまたいで自在に歩く姿勢に、底の見えない魅力を感じた。同じ時代に国内を二分するほど論じ合った柳田国男とは、学問の構えが違って見えた。釋迢空という名で詠まれた和歌が、寂しかった。

でも、いちばん大きかったのは、たぶん顔である。

折口の写真を見て、亡くなった祖父に似ている、と思った。敬愛していた祖父だった。

学問の入口が顔だったというのは、我ながらどうかと思う。ただ、人が本を手に取る理由など、案外そんなものかもしれない。

折口から学んだことを一つだけ挙げるなら、真理と芸術は切り離せない、ということだった。

その折口を追いかけているうちに、同じ安藤礼二の本の中で、そして若松英輔の本の中で、井筒俊彦にぶつかった。

『意識と本質』を読んだ。

書かれていたのは、言葉と世界の関係である。それは、卒業論文で扱った大森荘蔵の「立ち現れる」と、よく似ていた。似ていたが、比べものにならなかった。

大森が見せてくれたのは、一つの明晰な景色だった。井筒が見せたのは、大陸だった。禅を、イスラームを、東洋の言語を、同じ地面の上に並べて、そのうえで、言葉が世界を切り出す仕組みを組み上げている。堅牢、という言葉が浮かんだ。

二つの言葉が残った。

一つは、分節。世界にはもともと意味がない。人の意識が世界に線を引き、その線によってはじめて、何かが何かとして現れる。

もう一つは、事事無礙。個々のものが、個々のままで、互いに通じ合っているという見方である。すべては一つ、という話ではない。草は草のまま、石は石のまま、それでいて隔てがない。

この二つで、僕の世界観は輪郭を持った。

救われた、と書いてしまいそうになる。書いておくが、これは僕がそう感じたというだけのことであって、答えではない。

高校の倫理の授業から、イデア論から、老荘から、ユングから、バークリーから、大森から、空海から、清沢から、ここまで運んできた全部が、一本につながった気がした。

気がした、というだけかもしれない。それでも、地盤は少し固まった。

僕は、折口と井筒に私淑したのだと思っている。会ったことのない、もう死んでいる人たちにである。

ずっとあとになって、サルトルの『嘔吐』を読んだ。

主人公が、公園でマロニエの根を見る場面がある。見ているうちに、その根が、根であることをやめていく。名前が剥がれ落ちて、ただの何かになる。彼はそれで吐き気を催す。

読みながら、あの廊下だ、と思った。

あの日の僕には、あの感覚を呼ぶ名前がなかった。名前がついたのは、何年もあとのことだった。

手術は十四時間かかった。終わったとき、右目は見えなくなっていた。

驚いたのは、そのあとに起きたことである。

写真の好みが変わった。カラーで撮っていたのが、モノクロームでしか撮らなくなった。

理由は自分でもよくわからない。片方の目を失うと、奥行きが消える。世界が平らになる。平らになった代わりに、陰影のほうに、こまかく反応するようになったのかもしれない。

もう一つ、これは気のせいかもしれないが、外国語が前より入ってくるようになった。失われた視覚の領域に、言葉の領域が滲み出したのではないか、と勝手に思っている。医学的な裏づけは何もない。ただの感覚である。

世界が、ひどく個人的なところから現れてくるものだとするなら。色には、もともと意味などないのではないか。陰影のほうにこそ、隠れているものがあるのではないか。

そう思うようになって、いまも片目でモノクロームを撮っている。

片目になって最初に撮った一枚を覚えている、と言いたいところだが、正確には覚えていない。

僕が使っているのはレンジファインダーで、見たものが見たまま写る。それに、撮った直後にモニターを見る習慣がない。だからその場では、何を撮ったのかよくわかっていない。

家に帰って、現像アプリで開いた。

画面に出てきたものを見て、これだ、と思った。この世界だ、と。

たぶん、雨に濡れた草だった。

一年が過ぎた。

僕は死ななかった。半年はとうに過ぎ、一年も過ぎた。

そのころ、義母が酒を飲んでいた。義母は酒が好きである。そして酔った義母の口から、あの日の話が、パートナーに漏れた。

一年かけて設計した計画が、酔っ払いによって、いちばん間の抜けた形で終わった。

問い詰められて、僕は全部白状した。

ただ、そのときにはもう、僕は元気だった。死ぬ気配というものを、まるで見せていなかった。だからその事実は、彼女を壊さなかった。一年分の下地があって、目の前に僕が座っていた。

いま思えば、順序として、これでよかったのだと思う。

意味は、いつも後から来る。廊下の感覚に『嘔吐』という名前が来たのも、シャッターを切った草に「この世界だ」が来たのも、遍歴の全部に井筒が来たのも、あとからだった。

彼女にも、そうなった。一年のあいだ理由を知らないまま受け取って、あとから、あれはそういうことだったのか、と分かる。

僕がそれを意図してやったのかどうかは、自分でもよくわからない。

地盤は、まだ固めている途中だ。たぶん、死ぬまで終わらないだろう。

ただ、歩きはじめたころよりも、少しだけ高度が上がった気がする。

学ぶたびに、新しい芸術に触れるたびに、見えている世界のほうが変わっていく。

それが、生きているということなのかもしれない。

Photograph by © 2026 Kazutoshi YAMAGUCHI. All rights reserved.

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山口 和敏

熊本を拠点に、テレビディレクター・ライターとして30年以上活動。 2019年、希少がん「上顎洞がん」で余命6か月を宣告される。抗がん剤、放射線、14時間におよぶ手術を経て右目を失ったが、「どうせなら楽しんでしまおう」と開き直り、ブログとYouTubeで発信をつづけている。現在は動画制作コンサルおよびビジネスコンテンツライターとして活動しながら、がん患者の「仕事と治療の両立」や前向きな生き方を届けることをライフワークにしている。片目になってからLeicaを手に取り、光と影の中に生きる力を探す写真家として、もうひとつの表現を歩み始めた。失ってはじめて、世界の"本当の表情"が見えてきた気がしている。病気になっても、失っても、人生は終わらない――その希望を、誰かに届けたい。

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