エッセイ

ブリヤリジョ

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 今日は、病気とは関係ありません。

 「ブリヤリジョ」とは、市場直送の新鮮なブリを配る活気のある場所でも、脂の乗ったブリを配ってまわる親切な女性のことでもありません。私の造語です。こんな言葉がぽろっと出てしまうなんて、なんてクリエイティブなんだと我ながら感心してしまいます。私にとってはここ数年心の中で使わない日はないくらい、とても意味のある言葉です。

 「ブリヤリ」とは、「放り出す」の熊本弁「ぶりやる」の変化で、「ジョ」はそのまま「所」。つまり「ブリヤリジョ」とは「放り出す場所」という意味になります。

 私の連れ合いは、怒るととても怖いです。例えば、2人で買い物をしている時、私が大好物の黒糖蒸しパンに気を取られ、黙ってフラフラとそっちに歩いて行こうものなら「勝手にあちこち行ってはならない」と般若のような顔で説教されます。般若のような表情になっているのは私を威嚇するためだと思います。

 それから、私はモノを片付けてうっかりどこに片付けたか忘れてしまうことがたびたびあります。片付ければまだいい方で、あちこちにモノをほっぽり出してしまうクセがあります。私が「目から光が出る黄色い人形、どこにあるか知りませんか」と尋ねると、何とも言えない人を小馬鹿にしたような薄笑いを浮かべ、「あたしは知らんよ。またあたしのせいにしとるでしょ。勝手にそんなものさわらんよ」とめんどくさそう言われ、さらに説教が始まります。

 「あのね、モノには決まった住所があるとたい。その住所にきちんと帰してやらんからいつもそういうことになるとたい」

 ごもっともです。反論、口ごたえのしようがありません。私が悪いです。不条理を感じながらも「ごめんなさい」と謝ります。不条理を感じるのは、連れ合いだって髪を結ぶゴムやピンをあちこちに放っていたり、濡れたタオルをテーブルの上に放ってそのままにしているからです。

 モノには住所がうんぬんかんぬんと説教をするのに! 人を小馬鹿にしたような表情で! 自分だって放り出しているくせに! と言いたいのですが、般若が怖いので何も言えません。悔しくて悔しくてたまりませんでした。あの日までは…

 今から1年前の秋の日のことです。連れ合いは外出して不在。私はどこかに片付けたはずの紙やすりを探していました。その時です。クローゼットの布団の上に見慣れたスウェットの部屋着を見つけました。連れ合いが部屋着をぐちゃっと丸めて乱暴に放り出していました。その時にひらめいたのです! 降ってきたと言うのでしょうか。私は感激のあまり、ぶるぶると震えながら部屋着を丸めると同じように乱暴にその場所に放り投げました。ここを部屋着の「ブリヤリジョ」と名付けよう! 同じ場所に放り出したのであれば、説教されることはないはずだ!

 帰ってきた連れ合いに私ははっきりと言いました。

 「君の部屋着のブリヤリジョを発見した。同じ場所に私もぶりやった!」

 案の定、連れ合いはぐうの音も出ない様子で、悔しそうに私を睨むことしかできませんでした。胸がスッとする会心の一撃。説教を聞くだけじゃなく、私も連れ合いが放り出したゴムやタオルと同じ場所に放り出せば良かったのです。その日以来、ブリヤリジョは私の心のよりどころとなりました。

 引っ越して3日目の今朝、ベッドの上に乱暴に放り出された連れ合いの部屋着を発見し、久しぶりにその日のことを思い出したので記録のために書いてみました。コロナ、政治、お金、不条理なことが多い世の中ですが、観察力と創造力があれば乗り越えられないものはありません。

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山口 和敏

熊本を中心にテレビディレクターとして30有余年。哲学を専攻。今も「人間とは…」「生命とは…」といった空恐ろしいことを問い続けながら、幅広いジャンルの番組制作に携わっています。 およそ2年前、「上顎洞がん」というけったいな希少がんに罹患し、余命6か月の宣告を受ける。 抗がん剤治療や放射線治療、12時間に及ぶ手術といったほぼフルコースのがん治療で右目を失うという過酷な闘病の中、脳のわずかな場所が生み出す絶望や苦悩にも関わらず、70兆個にもおよぶ肉体が持つ、生命の尊さと力強さをひしひしと深く感じることができた。これらの経験がいまの私の制作における大きな動機となっています。

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