エッセイ

緊急ではない緊急手術

福ちゃんとめいちゃん

 7月8日木曜日、上顎洞がんの手術を行いました。上顎洞というところはとても複雑な形をしていて手術には時間と技術を要します。眼球、骨、上顎と複雑に入り組む組織にどのようなアプローチを行うかという医療ドラマさながらの緊迫感ある説明が行われます。説明が架橋にさしかかったところで、

 「取っただけだと空洞になってしまうので、そこにお腹の肉を持ってきてかぽっと埋めます」

 突然アナログ的に「かぽっと」お腹の肉が入ります。

 さらに、お腹の肉の状態もやはり良い状態というものがあって、厚すぎてもいけないし、薄くてもいけない。食べたり飲んだりすることが大好きな私のお腹の肉は当然厚いわけです。お肉の状態を調べるとこの1か月で5キロの減量を目指しましょうということになりました。簡単な減量ではないけど、1か月で5キロならなんとなかなるかとたかをくくっていました。

 その話し合いの3日後、

 「手術のあきができたので今週手術しませんか」

 「お腹が出ているまんまですが」

 「できないことはありません」

 「……」

 というわけで、私は私にとって緊急となる手術を受けることになりました。普通、手術をひかえて不安に感じることは、腫瘍の切除は成功するだろうか、どんな後遺症が残るのだろうかということだと思うのですが、私の場合、軽肥満の腹が顔にかぽっとはまることで、一体どんな顔になるのだろうかというものでした。

 結果、10時間以上の大きな手術となりました。

 私は寝ていただけなので、手術中に、医局のなかの出世をかけたドロドロの人間模様が露出してしまったり、ナースの1人が思いを遂げられない若いドクターの背中を見ていられずに手術室を飛び出していくなど、どのようなドラマが生まれていたのかはうかがい知ることはできませんが、とりあえず手術は終了。

 手術室からHCU高度治療室へと運ばれました。その時です。

 悲痛な叫び声が大きく響いたのです。

 「いや~~~~」「ああ~~~~」「いや~~~~」「いや〜〜〜〜」

 現在新型コロナによる感染予防のため、手術前後に患者と家族が接触することができない状況になっています。そのため、家族は、目の前の通路をストレッチャーで運ばれていく患者をちらっと見るだけなのです。だから、手術前に手を握って応援の言葉をかけたり、手術が終わって、よくがんばったねなどの言葉をかけることが出来なくなっています。そういうことなので、私の場合、なんも心配はないから家で連絡を待ってもらうことにしていたのです。

 たまたま、別の手術室から出てきたその叫び声の主と関係がある患者さんとタイミングがあったのです。

 私ははっきりとした意識の中でその地獄の叫びを耳にすることになりました。時間にして1分程度。家族、もしかしたら息子か娘、父か母かもしれません。とにかくとても大切な人なのです。あらん限りの声を出して悲痛な叫び声を何度も何度も出すくらいですから…。

 でもね、見れば分かると思うのですが、ストレッチャーの上でぐったりしている私もいるわけです。そんな悲鳴を聞くとさすがに不安な気分になります。

 失敗しない女医さんのドラマをはじめ、多くのドラマでは、手術をやり遂げた執刀主治医が興奮気味にスタッフと会話を交わし、続々と出てきて患者とともに治療室に向かうという、活気のある光景は描かれることは少ないと思います。

 何が言いたいのかというと、そこは何人もの患者さんがいる、明らかに公共の場所なのです。だからこそ、そこはできるだけ大きな声は出さずに、不安げな表情でギュッと拳を握るとか、その程度にしていただくことは出来ないのかということなのです。

 手術が終わって3日目で、体がきついからといって、こんなふうに人を責めることを書いてはいけません。私の顔は軽肥満のお腹の肉がかぽっとはまり、見事な満月状態になっています。まだ腫れていてそのような状態であるらしいのですが、どうなるかはまた追って報告いたします。

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山口 和敏

熊本を中心にテレビディレクターとして30有余年。哲学を専攻。今も「人間とは…」「生命とは…」といった空恐ろしいことを問い続けながら、幅広いジャンルの番組制作に携わっています。 およそ2年前、「上顎洞がん」というけったいな希少がんに罹患し、余命6か月の宣告を受ける。 抗がん剤治療や放射線治療、12時間に及ぶ手術といったほぼフルコースのがん治療で右目を失うという過酷な闘病の中、脳のわずかな場所が生み出す絶望や苦悩にも関わらず、70兆個にもおよぶ肉体が持つ、生命の尊さと力強さをひしひしと深く感じることができた。これらの経験がいまの私の制作における大きな動機となっています。

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