エッセイ

夜空を今夜も有難う

準備するもの

 上顎洞に新しい腫瘍が見つかり、手術することになりました。今年2月の手術では上顎洞の一部取り除く小規模なものだったのですが、今回は目玉から上あごまでを取り除いて、ぽっかりあいたところにお腹の肉を詰め込むという、聞くだけでぞっとする手術をすることになります。予定では今週木曜日。

 ついさっき、ナースから手術までに用意しとくものの説明がありました。その中に紙おむつというのがあって、私は赤ちゃんの時以来の久しぶりのおむつをはくわけです。おむつ替えが発生するということなのでしょうか。できるだけ心を無にして楽しんでみようと思います。

 ところで、中年以降のおじさんたちが相部屋で共同生活を送るのは、多くの場合、悪いことをして捕まってしまった時か、病気に罹ってしまった時になりますが、おそらくいずれの場合も日常では経験できない面白い出来事が待っています。

 私が出会ったおもしろおじさんを一部紹介するだけでも「アッアーおじさん」、「尿道カテーテルを抜いてナースに振り回すおじさん」、「刑務所からやってきた共同生活がやめられないおじさん」、「食事の時にかならず箸で茶碗をたたきリズムを取るおじさん」などなど、そんなバラエティー豊かな面々が、病気の程度や副作用の強さによって元気のあるほうからないほうまで様々な程度で存在しているのです。面白くないはずはありません。

 これまでの入院で特に印象にのこっているのが、私が「ファンタジーおじさん」と名付けた70代のおじさんです。早期の咽頭癌で術後の経過は順調に進んでいるようでした。特に特徴のある方ではなく、とりたてて話をすることもなかったのですが、ある日突然、おじさんから話しかけてきました。

 「きのうも綺麗な夜空をありがとうございました。きのうは特に綺麗でした」

 こういう時、わけが分からないからといって否定すべきではないと決めています。なぜなら、この世界は不思議がいたるところに隠れていて、それを知らずにいるのは損だと思っているからです。

 「よかった。綺麗でしたか」

 「どうやって天井を透明にしているんですか。不思議だけど本当にすばらしい」

 「ばれたらいけないので実は大変なんです。でもありがとうございます」

 夜になると、病室の天井が透明になり、満天の星空があらわれる。いつしかベッドは小舟となって、おじさんはきらめく夜空を静かに漂う。もしかしたら優しいクラシック音楽が流れているかもしれません。そしておじさんは深い眠りに落ちる…。なんて素敵な光景でしょう。

 聞くと、夜中にパソコンに向かって翌日の放送台本を書いている私を見て、私がやっていると思ったのだそうです。70代のおじさんの想像力がこんなに美しいファンタジーを生み出しているなんて。その後ファンタジーおじさんはすぐに退院してしまいました。彼の病気はきっとよくなるでしょう。

 私はといえば、常に「アッアー」と声を発するうるさい隣のおじさんの胸ぐらを掴み、激しく揺さぶりながら「アッアー、アッアー、うるせえんじゃ! ぼけー!」と訴える、という実につまらないことをネチネチと想像していました。想像の質に雲泥の差があります。アッアーおじさんとはその後仲良くなりました。

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山口 和敏

熊本を中心にテレビディレクターとして30有余年。哲学を専攻。今も「人間とは…」「生命とは…」といった空恐ろしいことを問い続けながら、幅広いジャンルの番組制作に携わっています。 およそ2年前、「上顎洞がん」というけったいな希少がんに罹患し、余命6か月の宣告を受ける。 抗がん剤治療や放射線治療、12時間に及ぶ手術といったほぼフルコースのがん治療で右目を失うという過酷な闘病の中、脳のわずかな場所が生み出す絶望や苦悩にも関わらず、70兆個にもおよぶ肉体が持つ、生命の尊さと力強さをひしひしと深く感じることができた。これらの経験がいまの私の制作における大きな動機となっています。

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