中学校の体育教師だった父方の祖父は、町の人たちから「ライオン」と呼ばれていました。
常に生徒に吠えていたからです。直接その声を聞いたことはありませんが、ライオンというくらいですから、「ガオー」に近かったのでしょう。
よく殴られていたという町内の人からは、「たるんだ生徒を見つけるとひと吠えし、その辺に落ちている石を握りこみ、その拳を振り上げて走ってきた」なんて生々しい話もよく聞かされました。
北野武監督のバイオレンスの世界です。今なら完全にアウトです。
相当に短気で、手が早かったのでしょう。
そんな祖父の記憶は、小さな町に今も残っています。
私は幼い頃から「孫ライオン」と呼ばれていました。
嫌ではなく、どこか誇らしかったのを覚えています。
ライオンは、50歳を過ぎてから運転免許を取りました。
自動車学校で習った半クラッチをどこまでも使い、愛車のトヨタはいつもつらそうな轟音をたてながら白煙を出し、法定速度だけは頑なに守って安全運転。
周囲からどう見られているかは、あまり気にしない人だったのでしょう。
さて、そんな私の「見え方」も、少しずつ変わってきました。
パンパンに腫れていた顔も、だいぶ“見られる”ようになってきました。
傷だらけのツートンカラーの顔に、歯のないじいさんのような喋り方は相変わらずですが、マスクと眼帯をしていれば、以前とほぼ変わらぬ見た目になります。
手術後は、強制的な節制のおかげでリバウンドもせず、体型も維持。
甘い物の誘惑と戦いながら、今は2週間に1度、免疫チェックポイント阻害薬「ニボルマブ」の点滴を受けています。
治療自体はたいしたことありませんが、病院には“生気を吸い取られる”何かがあるようで、通院だけでどっと疲れてしまいます。
事件が起きたのは、そんな帰り道のことでした。
録画した北大路欣也版『剣客商売』を今夜は観ずに、早めに寝よう――
そう思いながら歩いていると、ある駐車場の入口で、後ろから下品なクラクションが2発。
きつくてイライラしていた私は、立ち止まり、残った左目をひんむいて運転席をにらみつけました。
なんせ武器は目しかありません。しかも1つ。
でもその分、力を込めて、にらみました。
すると、運転手が降りてきました。
見るからに、チンピラのようなじじいです。
普通の市民なら、「すみません、気づきませんでした」で済ませるところですが、
これは見るからに「反社」。
しかも、開口一番、
「お前オレにガンつけたな。オレはヤクザだ。どうなってもしらんぞ」
と言い放ちました。
ヤクザを名乗った時点で、たとえ虚偽でも脅迫罪成立です。
負けは確定。
私は周囲の防犯カメラの位置も確認済み。
あとは、手でも出してくれれば完全勝利です。
「ガンはつけとらんけど、私はがんに罹って……」
と大喜利風に返そうかとも思いましたが、
あまり面白くなさそうなのでやめました。
代わりに、声を張ってこう言いました。
「うるさいから住宅街でクラクション鳴らすな!
ヤクザが市民に何言いよっとか!どこの組か名乗れ!」
歯がないので、腹から声を出さないとふにゃふにゃになります。
なので、思いきり大きな声で、何度も何度も言いました。
相手のじじいは、
ツートンカラーで傷だらけの顔に片目、変なしゃべり方で大声を張る私を見て、
いろんな思考が頭をよぎっていたようです。
「お前が、このオレにガンつけるけんたい!」
「だからお前はどこの誰か言え!」
そこに、おまわりさん登場。
「はいはい、どうしました? 近所の方からケンカの通報が入りましたよ〜」
こうして騒動は解散。
おまわりさんには「どちらかの組の方ですか?」と真顔で聞かれました。
ブルーのチェックシャツに、折り返したデニム、ドクターマーチンを履いていても
**「ヤクザに見える」**というのは、
もしかしたら現代のヤクザの弱体化の裏返しなのかもしれません。
ご近所のみなさま、
不安にさせてしまって、本当にごめんなさい。
ちょっとイライラしていたんです。
声が大きくなってしまいました。
本当にごめんなさい。
そして――天国のおじいちゃん。
ライオンの遺伝子、たしかに残っています。