エッセイ

焦らず、慌てず、諦めず…でも

仕事を手伝う福ちゃんとめいちゃん

 小鳥と暮らしています。

 以前、スズメを保護していたことがあり、その時の可愛さが忘れられず、小鳥を飼うことが長年の夢でした。鳥のおもちゃを買ったり、フエルトの小鳥をバッグに付けたりして、その思いををごまかそうとしてみたこともありました。でも、小鳥を飼いたいという思いは日に日に強くなるばかりで、何年もかけて悩んだ末、今年、念願の小鳥の雛をお迎えしました。

 スズメよりもひとまわり小さい、キンカチョウという鳥です。あまりポピュラーな小鳥ではありませんが、オーストラリ原産の小鳥で、明治期には日本で飼育が始まっていたようです。いろんな種類の色や柄がいます。我が家にやってきたのは、白いメスのキンカチョウ2羽でした。

 ひとことで言ってとにかく可愛い。子猫のような「メー、メー」といったちょっと変わった鳴き声に癒されます。インコやオウムのように飼い主にベタベタ懐くことはないようなのですが、肩に止まって餌をリクエストしたり、手の中で水浴びしたり、眠くなると襟の中に入って寝てしまいます。長女は、家に幸福をもたらしてくれるように「福」、次女は5月5日生まれなので「めい」と名付けました。福ちゃんとめいちゃんです。

 群で行動する鳥の特徴として、仲間と同じ行動を取ろうとします。だから、私たちが何か始めると同じことをしようとします。パソコンで仕事を始めると、飛んできて私と一緒にキーボードを打ちます。私が書く台本によく「っっっっっっz」などと書かれているのはそのためです。料理を始めると、一緒に料理をしている気分になるのか炒め物の中に飛び込もうとするので気が抜けません。どちらかというとめいちゃんの方がおてんばで、福ちゃんはそんなめいちゃんを一歩引いて見ているという感じです。

 そんな2羽なので、私たちがご飯を食べていると、ぴゅうっと飛んできて同じものを食べようとします。人間が食べるものは小鳥にとってあまり良くないものもあります。炊いたご飯粒は糖が多すぎて小鳥の内臓に負担をかけてしまったり、粘りがあるため喉につまってしまうこともあるのだそうです。だから、心を鬼にして、「らめ(だめ)ですよー」なんて言いながら食べ物から遠ざけています。

 そんな食事の時に困るのが、私の麻痺した右半分の口から気付かないうちにだらだらと食べ物が出ている時です。人間から見れば、口の端から垂れている唾液混じりの雑穀米なんて、けったいなだけですが、福ちゃんやめいちゃんからすると、仲間が食べているごちそうなわけで、これを食べない手はありません。右眼のない私にとって右側は死角になっていて、食事に集中してしまうと小鳥たちに気付かないことがあります。ついさっきも、私の口から飛び出してシャツの裾に引っかかっていた濃いめに味付けされたレバニラ炒めのレバーをついばんでいました。「らめー(だめー)!」なんて言っても、もちろん聞いてはくれません。ぴょんぴょんと手をすり抜けためいちゃんは得意げな顔で臭みが一切ないレバーのコリコリとした食感と食欲をそそるごま油が香りを堪能しているようでした。飼い主の責任なので本当に気を付けなければいけません。

 それはそうと、私の顔右半分の麻痺! 食事の度に顔や服が汚れるので、その度に「いつまでこの状態が続くのだ」と腹が立って仕方ありません。がん患者の心得としてよく「焦らず・慌てず・諦めず」なんて言います。でもやっぱり、一日も早くこの忌ま忌ましい食事のしにくさから早くもとの食事に戻りたいと思ってしまいます。一日も早く!

 腹直筋を移植した顔の腫れは日に日に落ち着いてきているようです。パートナーいわく、「気持ち悪さがすこし和らいだ」とのこと。なんちゅう言い方…。さらに、顔に張り付いたお腹の皮の部分が白いので、マスキングテープでその他の部分を覆って白い部分だけ日焼けさせると、もうすこし見た目のインパクトが弱くなるのではないかと仰っています。 …私の顔を手芸用の牛革かなにかと一緒にするなっ! バシーン! と張り手の一つも見舞ってやりたいところですが、気の弱い私はそんなことはおくびにも出さずに、「それいいアイデアだねー」と笑顔さえ見せてやるのです。

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山口 和敏

熊本を中心にテレビディレクターとして30有余年。哲学を専攻。今も「人間とは…」「生命とは…」といった空恐ろしいことを問い続けながら、幅広いジャンルの番組制作に携わっています。 およそ2年前、「上顎洞がん」というけったいな希少がんに罹患し、余命6か月の宣告を受ける。 抗がん剤治療や放射線治療、12時間に及ぶ手術といったほぼフルコースのがん治療で右目を失うという過酷な闘病の中、脳のわずかな場所が生み出す絶望や苦悩にも関わらず、70兆個にもおよぶ肉体が持つ、生命の尊さと力強さをひしひしと深く感じることができた。これらの経験がいまの私の制作における大きな動機となっています。

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