エッセイ

ものの食べ方について思うこと

アメを舐めるパートナー

 食事に苦労しているので、以前よりものの食べ方に興味があります。

 ふと思ったのですが、食べることと出すことは人間にとって同じくらい大切なことのはずなのに、なんで出す方は隠し、食べる方は隠さないのでしょう。衛生的な面を考えると当然のことかもしれませんが、なんか不思議。

 仲の良さそうなカップルがいて、私が尋ねます。

 「いつも仲が良くていいですね。なにか秘訣はあるのですか」

 すると彼が、

 「記念日を大切にしています。昨夜も特別な日だったのでいつも行かないような高級なトイレを予約して2人で行ってきました。小花をあしらった便器がとても素敵でしたよ」と満面の笑顔……

 なんてことにはなりません。でも、聞くところによると若いマウスの糞を年老いたマウスの腸に移植したところ脳や内臓が若返ったのだそうです。人体に不必要だから排泄されるものであり、汚いものである、という考えは近い将来なくなってしまうかもしれません。

 ものの食べ方についてでした。

 あるものの食べ方についてパートナーと議論を交わしたことがあります。パートナーはきちんとした食事のマナーを身につけている人で、姿勢も良く、美しくものを食べる人です。お酒を飲む姿もきまっていて、いつも行くイタリアンのお店のカウンターで赤ワインを傾ける姿は、まるでローレンス・オリヴィエとの恋愛で浮名を流したヴィヴィアン・リーのようです。

 そのパートナーが、なぜか飴を舐める時だけおっさんのようになるのです。

 べちゃべちゃというか、むちゃむちゃというか、唾液混じり飴玉を口中に激しく転がし、かちんかちんと歯に当て、口の中にできた汁をじゅああっと吸う。突然盛大な音を立て始めるのです。焼肉屋さんの帰り道に初めて聞いた時は、我が耳を疑ったほどです。

 「なぜ飴になると突然そんなおっさんのような舐め方になるのですか」

 と問うと、

 「こうやって空気と混ぜながら食べると、飴の香りが口中にひろがって美味しくなるのだ。お前も試してみろ」

 確かに、口を閉じて飴を舐めるより、口を開けて空気と混ぜた方が香りを強く感じることができます。

 なるほど! と納得しかけたところで気付きました。香りのことを言うのであれば、それは飴に限らずどんな食事でも同じことではないかと。つまり、パートナーは飴クチャラーだったのです! でも、私に正論を言ってやったとばかりにしたり顔のパートナーを見ていると、そのことを指摘するのが気の毒になり、黙っていることにしました。

 パートナーは今も飴になると突然盛大な音を立て、最後まで舐めずに途中でガキガキとかみ砕いてしまいます。私は1人で居るときにだけ、その舐め方で飴の香りと味を楽しんでいます。品がないことをしているというちょっとした罪悪感を楽しみながら。

 

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山口 和敏

熊本を中心にテレビディレクターとして30有余年。哲学を専攻。今も「人間とは…」「生命とは…」といった空恐ろしいことを問い続けながら、幅広いジャンルの番組制作に携わっています。 およそ2年前、「上顎洞がん」というけったいな希少がんに罹患し、余命6か月の宣告を受ける。 抗がん剤治療や放射線治療、12時間に及ぶ手術といったほぼフルコースのがん治療で右目を失うという過酷な闘病の中、脳のわずかな場所が生み出す絶望や苦悩にも関わらず、70兆個にもおよぶ肉体が持つ、生命の尊さと力強さをひしひしと深く感じることができた。これらの経験がいまの私の制作における大きな動機となっています。

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