イベントなどで和太鼓を演奏するグループに所属しています。
私は太鼓の他に、笛などの鳴り物を担当しています。だから、上あごを取り除く手術を受けた時点で、もう二度とイベントには参加できないだろうと覚悟していました。ところが、退院から半年ほど、笛に息を吹きかけて“音のようなもの”を出す練習を続けていたところ、意外と鳴るようになったのです。
顔の感覚を支配する三叉神経のうち、真ん中の神経が切断されているため、唇の右半分には感覚がありません。でも、「このへんかな」という感覚だけで笛を当てると、6〜7割の確率で音が鳴るようになりました。
ほら貝も私の担当です。感覚のない唇から息が漏れないように指でつまみ、感覚が残っているほうの唇を使って音を出します。
そんなこんなで、久しぶりにイベントへ参加することになりました。
久々の出演ということもあり、私は気合いが入っていました。いつもよりちょっぴり格好をつけて、ほら貝を高く構えたのです。……が、やはりいつもと違うことをするとろくなことがありません。構えた拍子に、ほら貝を前歯にぶつけてしまい、2本しか残っていなかった貴重な前歯のうちの1本が、見事に取れてしまったのです。
春のなんとなく華やいだ雰囲気のイベント会場。ステージ上には、片目の上に歯が欠けた男が、自分の状況を飲み込めず、ぽかんと立ち尽くしているという――なんとも言えない、不思議な空気が漂っていました。
とにかく、この空気を壊してはいけない。そう思った私は、とにかくできるだけ笑顔を作ることにしました。
連れ(※連れも太鼓を打つ)に自分の状況を伝えようとするのですが、大きな声は出せません。もともと神経が通っていないため滑舌は悪く、加えて歯まで失ってしまった私は、満面の笑みで「ほ(歯)ご(が)とえ(れ)と(た)」、つまり「歯が取れた」と言っても、まったく伝わりません。本番中なので、2人ともこれ以上ないほどの笑顔のまま、状況だけがすれ違っていきます。
こころが通う瞬間
私は腹をくくって、ステージに集中することにしました。
不思議なもので、人間は追いつめられると、かえって感覚が研ぎ澄まされるものです。ふと最前列に目をやると、赤いシャツを着た男性が手拍子をしているのが見えました。……彼の前歯も、欠けていました。
とても素敵な笑顔で、太鼓の演奏に合わせて手拍子を打つその姿を見ていると、私もなんだか嬉しい気持ちになりました。
彼がどう思ったかは分かりません。でも、「歯が欠けている」という共通点で、言葉を交わしたこともない男性と、ふっと心が通じ合ったような――そんな、春の穏やかなひとときでした。
さいごに
上顎洞がんの拡大上顎全摘出手術を受けた方、また、今後受ける可能性のある方へ。
ほら貝を吹くときは、前歯に十分ご注意ください。