エッセイ

頑固なおじさん

談話室の置物

 手術から間もなく2週間。まだ痛みはあるものの、薬でしっかりコントロールできていて、体調などはばっちり。仕事も順調にこなしています。

 こうして余裕が出てくると、病棟で繰り広げられる楽しい人間模様が目や耳に入ってくるようになります。どんなに財を成したおじさんも、会社で立派な肩書きを持っていたおじさんも、家では女帝として振る舞っていたおばさんも、ここでは皆同じ患者さんに過ぎないのです。

 そこで登場するのが、ナースの言うことを聞かない患者さん。

 「頑張ってリハビリしないと体力がつきませんよ」

 「こんなじいさんが体力つけんでもよか」

 「少しでも歩かないと寝たきりになりますよ」

 「よか、俺はもう死ぬ!」

 といったコントのようなやりとりから、

 「もう少しお話しましょうかね」

 「……」

 「どうしました?」

 「ムコウニイク…」

 「行くのはいいけど、いま話をしとかないといつできなくなるか分かりませんよ」

 といった、ちょっと何かを予感させるようなドラマチックなやりとりまで、様々なイヤイヤが出てきます。ナースも、そりゃ大変です。子供の成長期に見られるむずがりであることは明らかなのですが、病気で弱るとそういう人間の本質が出てくるのかもしれません。ようするに病棟は大きな子供がたくさんいるところなのです。ただ、そういう単純なイヤイヤをする人たちは、医者に対してはほぼ大人しくなってしまいます。子供の鋭い感覚として、医者が自分を生かすも殺すも自由な立場にいるということが分かっているのでしょう。「協力していただけなければ治療を続けることはできません」と伝えるだけで、ぐずりはぴたりと止んでしまいます。

 その中で、ちょっと違うイヤイヤをする人がいました。70にさしかかったばかりの男性でした。

 放射線治療でぼろぼろになった首回り。おそらく食道も気道も火傷を負い、つばを飲み込むだけでも激痛が走るはずです。流動食を取るために鼻から管を通していました。その彼がある日、家に帰ると言い出したのです。

 「食事のリハビリをしないと何も食べられませんよ。今帰すわけにはいきません」

 「痛み止めをもらえば大丈夫たい」

 「だめです。喉にひどい火傷を負っている状況なので誤嚥による肺炎なども考えられます」

 「自分の体のことは自分が一番よく分かっとっと。もう大丈夫だけん家に帰る」

 「命の保証はできません」

 この押し問答は数日続き、結局、その男性は帰宅することになりました。この男性の言葉はずっと耳に残りました。聞きかじりではありましたが、その男性は若くにシングルファーザーとなり、漁師町のスナックを経営しながら男手一つで娘を育て上げた苦労人でした。体にむち打ちながら歯を食いしばって生きてきた自分が病気に負けるなんてあり得ない、という強い思いがあったのだと思います。

 医者やナースが何と言おうと、この体は自分のもので、自分が一番よく分かっている。だからこれ以上、娘を家に1人で置いておくわけにはいかない。

 しばらくたって、外来で元気そうな彼を見たとき私は確信しました。病気に打ち勝つのは医者でもナースでもない。自分なんだと。

 話は変わって、今朝、黒木香似のしゃべり方をするナースに嘘をつかれました。

 痛みをコントロールするために特定の痛み止めをリクエストしています。当然、その薬の投与があるだろうと待っていると、明らかにパッケージが異なっています。

 「○○をリクエストしたのですが、これは□□ですよね」

 「ちゃんと入っています」

 「そうなんですね。○○じゃないと効かないので」

 ところが、何分経っても痛みは消えません。

 そこに別のナースがやってきて○○が入っていなかったことを告げ謝罪しました。

 治療は信頼関係も大事なのだから、そんなことしちゃだめです! だめだめ!

 こんなことがあっても私は人ができているのでどんな仕返しをしてやろうなんてつまらないことは考えません。たぶん。むふふ。

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山口 和敏

熊本を中心にテレビディレクターとして30有余年。哲学を専攻。今も「人間とは…」「生命とは…」といった空恐ろしいことを問い続けながら、幅広いジャンルの番組制作に携わっています。 およそ2年前、「上顎洞がん」というけったいな希少がんに罹患し、余命6か月の宣告を受ける。 抗がん剤治療や放射線治療、12時間に及ぶ手術といったほぼフルコースのがん治療で右目を失うという過酷な闘病の中、脳のわずかな場所が生み出す絶望や苦悩にも関わらず、70兆個にもおよぶ肉体が持つ、生命の尊さと力強さをひしひしと深く感じることができた。これらの経験がいまの私の制作における大きな動機となっています。

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