エッセイ

獅子の笛

獅子の笛

僕の笛の先には、獅子がいる。

能管という、能の囃子で吹く竹の横笛である。その先端に頭金(かしらがね)と呼ばれる金具がはめてあって、僕の笛の頭金は、獅子の意匠になっている。

なぜ獅子なのか。買った年の十二月、邦声堂の方からのメールに、こう書いてあった。

獅子のような力強い笛になることを願いました。

笛を作ったのは、泥楽という笛師である。笛には笛師の手が入っていて、頭金の獅子には、邦声堂の方の願いがかけられている。吹く側の僕は、その願いを預かって吹いていたことになる。

この笛を、手放すことにした。

決めた、とだけ書いておく。出品はこれからで、写真もこれから撮る。今はまだ、僕の手元にある。行き先も、これから探す。

渡し終えてから書けば、話はきれいにまとまるのだろう。この文章は、その手前で書いている。


二〇二一年の十一月二十七日、東京・青梅の邦声堂から、三管の能管が届いた。

届いた笛を試し吹きして、十二月、この一管が僕の笛になった。笛師は泥楽。煤真竹八つ割り返し、籐巻き仕上げ、頭金は獅子。

邦声堂の見立てでは、音色はまろやかで、鳴り幅が広く、強い息にも弱い息にもよく反応する笛だという。

強い息にも、弱い息にも。吹く人の息の幅を、そのまま受けとめる笛ということだと思う。

邦声堂も、八つ割り返しという作り方の特徴として、素直な鳴りを挙げている。

僕の実感でも、とても素直に鳴る管である。

それから四年ほど、僕はこの笛を稽古で吹いた。

先日あらためて確かめると、竹も籐巻きも、きれいな状態を保っていた。四年分の稽古を通ったあとの姿である。


能管の作られかたは、とても手間がかかっていて面白い。

邦声堂の説明によると、材料は煤真竹(すすまだけ)だ。古い家の中で、長い年月、煙にいぶされてきた竹である。囲炉裏のあった部屋の竹には、煤がしっかりとつく。笛になる煤竹は、二百年前後のものが多いという。

つまりこの竹は、笛になるより前に、どこかの家の暮らしの煙を浴びて過ごしている。僕が吹いた四年より、竹が煙の中にいた時間のほうが、長いはずだ。

笛師は、その竹を短冊のように割り、組み直して一本の管にする。僕の笛の「八つ割り返し」は、この割って組む作り方のひとつである。丸い竹を一度ばらして、もう一度、管にする。

泥楽さんの笛は、どれも煤真竹の八つ割り返しで作られている。丸のまま笛にできる質のよい煤竹が、いまではごく少なくなり、手に入れるのも難しくなったからだという。

僕の笛も、煤竹だけの八つ割り返しである。そのぶん、大変な工程を経ている。この一本も、その少なくなった煤竹でできている。

「蝉(せみ)」と呼ばれる部品は、黒檀を彫って作る。管の中には、「ノド」と呼ばれる部分がある。最後に籐や桜樺を巻き、漆で仕上げる。僕の笛は籐巻きである。

一本の笛に、これだけの手がかかっている。どれも、吹く人の手に届く前に済んでいる仕事である。


手放すと決めたとき、僕の中にあったのは、こういう考えだった。

職人が心を込めて手間ひまかけて作った笛は棚に眠らせておくのではなく、数百年使えるお道具として次の世代に渡していかなければならない。

意味がある。

棚の上でも、笛はきれいなままでいられる。けれど、笛が笛として働くのは、誰かの息が通っているあいだである。煙をくぐり、割られ、組まれ、漆で仕上げられた竹が、最後に受け取るのは人の息なのだと思う。


この笛の行く末を考えて、はっとした。

新たな吹き手のもとに渡そう、と考えたときのことだ。いつのことかと言えば、いまである。この文章を書いている、まさにいま。

まるで人の一生と同じだ、と。

竹が育ち、どこかの家で煙を浴びる。笛師の手に渡って、割られ、組み直される。籐を巻かれ、漆で仕上げられ、頭に獅子をいただく。青梅の邦声堂から、僕のところへ来る。四年、僕の息を通す。

そして今、次の人のところへ向かう支度をしている。

書き並べてみると、この一本には、いくつもの手と時間が重なっている。煙を上げていた家の暮らし。竹を割って組んだ泥楽さんの手。獅子に願いをかけた、邦声堂からのメールの一行。四年分の、僕の息。そこへこれから、次の人の息が加わる。

竹の側から見れば、僕はずいぶん途中から出てきた人間である。僕の四年は、この笛の道のりの、ひと区間にあたる。その前にも、その先にも、この笛の時間は続いていく。

二〇一九年、僕は上顎洞がんで余命六か月と言われ、手術で右目を失った。この笛が届いたのは、その二年後のことだ。いまも治療を続けながら、仕事をしている。

余命を月で数えられた人間と、数百年使える道具。こうして並べると、持ち時間の単位がまるで違う。

数百年使える道具からすれば、誰が吹いても、吹く人はみな途中の人である。僕も、その一人だ。

途中の人の役目は、次へ渡すところまでなのだと思う。


この笛も、導かれるかのように、収まるところに行き着くのだろうか。

それは、もう少し先の話だ。

渡すときに付けていくのは、笛袋がひとつ。邦声堂の方が獅子にかけた願いも、吹く人が替わっても、笛の先についていく。

出品のために、何枚か写真を撮るつもりでいる。そのうちの一枚は、頭金の獅子のアップにする。

次にこの笛を鳴らすのが、どんな息なのか。

行き先は、これから決まる。


Photograph by © 2026 Kazutoshi YAMAGUCHI. All rights reserved.

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山口 和敏

熊本を拠点に、テレビディレクター・ライターとして30年以上活動。 2019年、希少がん「上顎洞がん」で余命6か月を宣告される。抗がん剤、放射線、14時間におよぶ手術を経て右目を失ったが、「どうせなら楽しんでしまおう」と開き直り、ブログとYouTubeで発信をつづけている。現在は動画制作コンサルおよびビジネスコンテンツライターとして活動しながら、がん患者の「仕事と治療の両立」や前向きな生き方を届けることをライフワークにしている。片目になってからLeicaを手に取り、光と影の中に生きる力を探す写真家として、もうひとつの表現を歩み始めた。失ってはじめて、世界の"本当の表情"が見えてきた気がしている。病気になっても、失っても、人生は終わらない――その希望を、誰かに届けたい。

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