エッセイ

遺伝子のささやき

布地

 中学校の体育教師をつとめていた父方の祖父は町の人たちから「ライオン」と呼ばれていました。常に生徒に吠えていたからです。直接その声を聞いたことはありませんが、ライオンというくらいですから「ガオー」に近かったのでしょう。よく殴られていたという町内の人から、「たるんだ生徒を見つけるとひと吠えし、その辺に落ちている石を握りこみ、その拳を振り上げて走ってきた」という生々しい話をよく聞かされました。北野武監督のバイオレンスの世界です。今なら完全にアウトです。相当に短気で手が早かったのでしょう。

 当時の教え子たちに痛みとともに刻み込まれたライオンの記憶はなかなか消えることはなかったでしょう。小さな町なので、私は幼い頃から「孫ライオン」という通り名で呼ばれていました。そう呼ばれて嫌な感じはなく、どこか誇らしかったのを覚えています。ライオンは50歳を過ぎてから運転免許を取りました。自動車学校で習った半クラッチをどこまでも使い、愛車のトヨタはいつもつらそうな轟音をたて、白煙を出しながら法定速度を守って安全に走っていました。まわりからどんなふうに見られているのかはあまり気にしない人だったのかもしれません。

 見え方と言えば、ぱんぱんに腫れていた私の顔もだいぶ見られるようになってきました。傷だらけのツートンカラーの顔と、歯のないじいさんのようなしゃべり方はそのままですが、腫れが引いた分、眼帯をしてマスクをしていると以前とほぼ変わらない見た目です。まだうまく食事が取れないので、それが今のところ幸いして標準体型を維持できています。前回は退院と同時に甘い物を食べ過ぎてあっという間にリバウンドしたのが、今回は強制的な節制で健康には良さそうです。

 治療も手術前の免疫治療に戻りました。がん細胞を攻撃する免疫細胞を応援する免疫チェックポイント阻害薬、ニボルマブを2週間おきに入れています。次のMRI検査までこの治療が続きます。血液検査をもとに診察を行い、ニボルマブの点滴。それぞれはたいしたことないのですが、病院というところは病人が多いのでなんだか生気を吸い取られるような気がして疲れます。先日もどっと疲れて病院をあとにしました。事件が起きたのはそんな時でした。

 今夜は録画した北大路欣也版の『剣客商売』を観ず、はやめに寝ようなんて考えながら帰っていました。ある駐車場の入り口にさしかかったところで、後ろから下品なクラクションが鳴らされました。それも長めなのが2回。きつくてイライラしていた私は立ち止まり、残った左目を一生懸命に使い、運転席のあたりをにらみつけました。なんせマスクもしているし、帽子もかぶっています。武器は目しかないのですが、私には1つしかありません。だからより一生懸命に左目をひんむき、にらみつけたのです。すると、運転手が降りてきました。見るからにチンピラのような風体のじじいです。

 これが普通の市民が降りてきたのであれば、「車が見えなかったので失礼しました」で終わらせるところですが、見るからに「反社」なので、ストレス発散にもなります。じじいはにらみ続けている私に近づくと、

 「お前オレにガンつけたな。オレはヤクザだ。どうなってもしらんぞ」

 ヤクザを名乗ってしまうと、虚偽でもそれだけで脅迫罪の要件を満たしてしまいます。だから、じじいの負けは確定しました。防犯カメラの位置も確認しているので、音が収録されていない場合を考えて、後は手を出してもらうと完全勝利です。それから、「ガンはつけとらんけど、私はがんに罹って…」と、大喜利風に何か言おうと思いましたが、あまり面白くなさそうなのでやめました。

 「うるさいから住宅街でクラクションをパンパンならすな!ヤクザが市民に対してなんて言いよっとか!どこの組か言え!」

 歯がないので腹から声を出さなければ、ふにゃふにゃとしか聞こえません。だから比較的大きな声でそのようなことをしつこく尋ねました。ツートンカラーで傷だらけの顔に片眼、声は大きいけれどしゃべり方が少し変…、そのヤクザはいろんなことが頭をめぐっているようでした。

 「お前がこのオレにガンつけるけんたい!」

 「だからお前はどこの誰か言え!」

 そこにおまわりさん登場。

 「はいはい、どうしました。近所の方からケンカの通報が入りましたよ」

 こうして解散となりました。私が車を運転していた人に大声で絡んでいるように見えたというのです。おまわりさんも私に、「ヤクザという声が聞こえたということですが、どちらかの組の方ですか?」と尋ねました。ブルーの可愛いチェックのシャツを着て、デニムの裾をあげ、ドクターマーチンをはいていてもヤクザに見えるくらい、最近のヤクザは弱体化しているのかな、なんて思いながら否定しました。

 近所のみなさん、不安な気持ちにさせてしまい、本当にごめんなさい。ちょっとイライラしていたのでつい大きな声を出してしまいました。本当にごめんなさい。そして天国のおじいちゃん、ライオンの遺伝子は確かに残っています。

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山口 和敏

熊本を中心にテレビディレクターとして30有余年。哲学を専攻。今も「人間とは…」「生命とは…」といった空恐ろしいことを問い続けながら、幅広いジャンルの番組制作に携わっています。 およそ2年前、「上顎洞がん」というけったいな希少がんに罹患し、余命6か月の宣告を受ける。 抗がん剤治療や放射線治療、12時間に及ぶ手術といったほぼフルコースのがん治療で右目を失うという過酷な闘病の中、脳のわずかな場所が生み出す絶望や苦悩にも関わらず、70兆個にもおよぶ肉体が持つ、生命の尊さと力強さをひしひしと深く感じることができた。これらの経験がいまの私の制作における大きな動機となっています。

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