エッセイ

何気ない日常の、かけがえのなさ

日差しがあたたかい午後、近所を歩いていると、仲睦まじく散歩をする老夫婦の姿が目に入った。

男性が少し前を歩き、女性が少し後ろをついていく。ずっとそうしてきたのだろう。並んで歩いて会話を楽しめばいいのに……と、一瞬思ったが、それが浅はかな考えだとすぐにわかった。

きっと、これが二人にとっての「自然」なのだ。

彼らは何も言わず、突然立ち止まり、腕を大きく広げて深呼吸を始めた。梅の香りがほんのりと漂う春の空気を、愛する人と並んで胸いっぱいに吸い込む。どれほどの年月、こうして歩き、こうして春を迎えてきたのだろう。

失って初めて気づくもの

がんになってから、何気ない日常こそがかけがえのないものだと、改めて思うようになった。

日々の散歩、季節の移り変わり、食卓を囲む時間。どれも特別なことではない。でも、それが突然失われると気づく。あの何気ない瞬間こそが、何よりも大切だったのだと。

この老夫婦のように、ただ一緒にいて、同じ空気を吸い、同じ風を感じる。それだけで十分な幸せだったのに、僕らはそれを当たり前のものとして見過ごしてしまうことが多い。

僕のそばには、大切な人がいる

ふと横を見ると、僕の愛しいパートナーがサクラの木を指さし、「クワガタがいる!」と大声をあげている。

3月にクワガタがいるのかな……と思いながら、その声が聞こえること、隣にいること、その瞬間を一緒に楽しめることに、心が満たされるのを感じた。

何気ない時間の中に、本当に大切なものがある。

今日も春の風を胸いっぱいに吸い込もう。大切な人とともに。

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山口 和敏

熊本を拠点に、テレビディレクター・ライターとして30年以上活動。 2019年、希少がん「上顎洞がん」で余命6か月を宣告される。抗がん剤、放射線、14時間におよぶ手術を経て右目を失ったが、「どうせなら楽しんでしまおう」と開き直り、ブログとYouTubeで発信をつづけている。現在は動画制作コンサルおよびビジネスコンテンツライターとして活動しながら、がん患者の「仕事と治療の両立」や前向きな生き方を届けることをライフワークにしている。片目になってからLeicaを手に取り、光と影の中に生きる力を探す写真家として、もうひとつの表現を歩み始めた。失ってはじめて、世界の"本当の表情"が見えてきた気がしている。病気になっても、失っても、人生は終わらない――その希望を、誰かに届けたい。

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