──見ることと存在をめぐる意識の再生
世界は、私たちが思っている以上に、脆く、そして美しい。
最近、私は「写真」と「哲学」、そして「命」という三つのテーマを、ひとつの線で結ぼうとしています。
きっかけは、数年前に受けた「余命半年」という宣告でした。
世界が意味を失い、すべてが無分節の闇に沈んだあの瞬間。
それでも、カメラを手にして、もう一度世界を見ようとしたとき、私は知ったのです。
「意味は、絶望の中からでも生み出せる」ということを。
今、私は井筒俊彦の哲学に導かれながら、
写真という表現を通じて、人が生きる意味を再発見する可能性を探ろうとしています。
まだ言葉になりきらない考えもたくさんあります。
このブログでは、その「考えの芽」を、すこしずつ育てていこうと思っています。
興味を持ってくださった方がいたら、ぜひ一緒にこの旅を歩いてもらえたら嬉しいです。
ここで少しだけ、私が深く影響を受けた井筒俊彦という人物について触れておきたいと思います。
井筒俊彦(1914–1993)は、日本を代表する哲学者・言語学者であり、イスラーム哲学、東洋思想、言語哲学など、広範な分野にまたがる深遠な探究を続けた人です。
彼は、「世界にはもともと意味があるのではなく、人間の意識が世界を切り開き、意味を与えていく」という考え方を軸に、
西洋哲学と東洋思想を自在に往還しながら、「意識」と「言語」と「存在」との関係を問い続けました。
なかでも彼の代表作『意識と本質』において展開された、「絶対無分節(アブソリュート・ノンアーティキュレーション)」という概念は、
私自身が絶望のなかで世界を見失ったとき、静かに、しかし確かに支えとなってくれた思想です。
井筒の哲学は、単なる学問の営みではありません。
世界が崩れ去るような瞬間に、人がどのようにしてもう一度意味を見出し、生きなおしていくか。
それを静かに、しかし驚くほど力強く教えてくれる叡智なのです。

世界は本来、意味を持たない。
意味とは、人間の意識が世界を「見る」ことによって初めて立ち現れるものだ。
井筒俊彦が「絶対無分節」と呼んだのは、意味がまだ分節されていない、純粋な存在の深層だった。
写真もまた、無分節の混沌から意味を掬い上げる営みである。
レンズを通して世界を見つめるとき、写真家は単なる風景や物質を記録するのではない。
沈黙の深みから、一瞬にして「意味」を立ち上げる。
それは、言葉に先立つ、視覚による意味創造の行為だ。
この普遍的な真理――「世界は意味を失い得る」ということ――は、決して抽象的な哲学論にとどまらない。
それは、私自身の人生に、突然として襲いかかった。
「あと半年の命です。」
医師のその宣告は、私の世界を一瞬にして井筒が語った「絶対無分節」の闇へと突き落とした。
色も音も消え、存在はただ無意味な漆黒の中に沈んだ。
しかし、その闇の中で、私の手にあったのはカメラだった。
私はシャッターを押し続けた。
生きる理由を失った者として、それでも「見る」ことを諦めなかった。
写真は、絶望という無分節の中から、かすかな意味を掬い上げる唯一の手がかりだった。
写真を撮ることで私は、自らの存在をもう一度「意味づける」作業を始めた。
それは、命を繋ぐための祈りであり、自己の深層意識との対話であった。
そして気づいた――
見ること、意味を生み出すことこそが、人間存在の最も根源的な営みであることを。
だから私は今、願っている。
写真そのものが人を救うわけではない。
だが、写真を通じて私自身が学んだ、「絶望をもう一度見つめ、そこに新たな意味を立ち上げる力」。
この視点を、人生の危機に立つすべての人々と分かち合いたいと願っている。
医療は身体を救う。
だが、「生きる意味」は医療だけでは救えない。
意味を取り戻すこと――それこそが、がん患者と医療者の間に新たな橋を架ける第一歩となる。
これは単なる写真論でも、個人的な回想でもない。
井筒俊彦が見据えた人間意識の深層。
その哲学を、私は視覚表現という新たな地平で実践しようとしている。
絶望の深淵から、もう一度意味を創りだすために。
そして、生きることを――再び選び取るために。