退院しました。
当日は、パートナーが仕事を休んで駆けつけてくれました。
目がなくなり、つぎはぎだらけで、パンパンに腫れあがった顔を見たパートナーは、予想通りの爆笑。
しゃべるとさらに大爆笑でした。
「おかしな顔の歯っ欠けじいさんが、もぞもぞしゃべってるようで、可愛くて面白い!」
とのこと。
まあ、予想通りといえば予想通りの反応ですが、
こういうところが優しい人だなあと、つくづく思います。
おそらく、私のような手術を受けた人の家族の多くは、
変わり果てた顔を見て、小さな悲鳴を飲み込み、
「大変だったね」と憐れみの表情を浮かべてみせるのかもしれません。
でも、彼女は面白がって笑ってくれた。
それは、深い思いやりと愛情のなせるわざかもしれません。
(本当にただ面白いだけなのかもしれませんが、それはまあ、おいといて。)
気持ち悪ければ「気持ち悪い」、
おかしければ「おかしい」と、はっきり言ってくれる。
そんなパートナーの存在に、いつも救われています。
本当にありがとう。
そして帰宅にあたって、ひとつ心配なことがありました。
それは――私が愛してやまない、小鳥2羽のこと。
キンカチョウという、スズメをひとまわり小さくしたような、
とても可愛い小鳥たちです。
およそ3週間の入院で、私のことを忘れてしまっているのではないか――
そんな不安を抱きながら、迎えた愛鳥との再会。
息を漏らしながらふにゃふにゃと名前を呼ぶと、
2羽ともすぐに飛んできてくれました。
手や肩に止まり、つぶらな瞳で私を見上げ、
「おかえり、父ちゃん」と言ってくれているようです。
……と、そのまま、傷口のかさぶたを勢いよく食べようとするので、
じいさんは大きな悲鳴をあげて、振り払いました。
うちのスタッフは小鳥に興味がないため、
私のこの小鳥愛を「やばい鳥おじさん」と呼びます。
でも私は、そんな2羽への愛情が、また一層深まりました。
コーヒーと花の香り。
猫のようにさえずる小鳥たち。
そして、優しい人が放つ、湿気を帯びた屁。
彩りに満ちた、日常のなんという素晴らしさ。
食事のたびに、口元からこぼれ落ちるヨダレ混じりの食べ物に腹は立つけれど、
それでも、飲み込みに挑戦しながらいろんな食材を口にできることの幸せ。
病院ではなかなか得られなかった、「生きている」という実感。
「いまを生きている」ということが、
明日も生きているという保証ではないこと。
それは、誰にでも平等に与えられた、
生と死が五分五分の確率の中で、たまたま自分に巡ってきた奇跡のような時間だということ。
そしてこの一瞬こそが、何にも代えがたい、かけがえのないものであること。
病気をきっかけに、
私は――小鳥と、がんと、そして優しい人に、教わったような気がします。
ちなみに、リンパ節を切除した首の傷めがけて、
2羽の小鳥が容赦なく飛んできます。
振り払っても、振り払っても、
執拗に突っついて食べようとしてくるので――
うかうか昼寝もできません。