エッセイ

笑い声が聞こえる写真

笑い声が聞こえる写真

一本の映画を、フランスから取り寄せた。

福岡の写真家、井上孝治さんを追ったドキュメンタリーである。撮ったのはブリジット・ルメーヌさんという、フランスの社会学者で、哲学者で、映画監督でもある人だ。

日本では配信されていない。監督に直接メールを書いた。DVDはあるが、フランスの規格のもので、日本では再生できないという。それならデジタルで、という話になって、四十ユーロをPayPalで払い、動画のリンクが届いた。

そうやって、僕は自分の部屋で、二十数年前にフランス人が撮った、福岡の写真家の映画を観た。

井上孝治さんは、一九一九年に博多で生まれている。三歳のとき、二階の階段から落ちて、耳が聞こえなくなった。

ろう学校を卒業する年に、父親から二眼レフのカメラを贈られた。ミノルタフレックス。当時としてはかなり高価なものだったらしい。

そのころ、ろう学校では手話が禁じられていた。禁じられていた人が、カメラを手にした。ここから先の彼の一生は、写真とともにあった。

映画の原題は、フランス語で「Koji Inoue, photographe au-delà des signes」という。signes は記号という意味だが、フランス語で手話のことを langue des signes と言う。だからこの題は、記号を超えて、とも読めるし、手話の向こうがわの、とも読める。

その映画は、六つの言葉で章立てされている。

最初の言葉が、Waiting だった。

待つこと。

いちばん心が動いたのは、その待ち方の話だった。

井上さんは、とにかくシャッターを切らない人だったという。自分が思ったとおりの状態になるまで、絶対に切らない。フィルムを無駄にしなかった、という言い方で、周りの人が証言している。

娘さんが、こんな話をしていた。

子どものころ、ベレー帽をかぶってセーターを着て、改まって記念写真を撮ってもらおうとした。ところが父はなかなかシャッターを切らない。だんだん疲れてきて、肩が落ちて、あくびが出た。

その瞬間に、パシャッと撮られた。

引き伸ばしてみると、すごくいい写真だったそうだ。

僕も写真を撮るので、この話に強く惹かれた。

井上さんが待っていたのは、整った顔や、こちらの用意したポーズではなかったのだと思う。子どもが構えていられなくなって、肩の力が抜けて、あくびが出る。その人がその人自身に戻る瞬間を、彼はずっと待っていた。

それは、人物を撮るというより、その人が生きている時間そのものを写そうとする姿勢だと思う。

だから彼の写真に写っている人たちは、ただ自然なだけではない。見ているこちらに、その場の空気や温度まで伝えてくる。

映画のなかで、誰かがこう言っていた。寒そうな人びとの写真を見ていると、見ている側まで寒くなってくる、と。静かなのに、なんとも言えない情感がある、とも。

もうひとつ、忘れられない話があった。

井上さんは、本土復帰前の沖縄に渡っている。パスポートが要った時代だ。八十本以上のフィルムと機材を抱えて、米軍の検問で怪しまれながら、そこに生きている人たちを撮った。千四百点。

その写真が、三十年ほど経ってから沖縄で展示された。

会場で、写真を見た人たちが、そこに自分を見つけた。知っている人を見つけた。そして、撮った側と撮られた側が、三十年ぶりに再会したのだという。

写真は過去を保存するだけのものだと、なんとなく思っていた。

そうではなかった。写真は、失われた時代を、いまの人間関係につなぎ直すことがある。

このあたりで、僕は自分の身体のことを考えはじめていた。

僕は右目が見えない。右の耳も聞こえない。

両眼で見ていたときの奥行きは、なくなった。世界は平らになった。そのかわり、光と影の関係が、前よりずっと強く、面白く感じられるようになった。

失われたものだけで世界を測ると、そこには喪失しか残らない。けれど、感覚が変わったことで、新しく立ち上がってくる世界のほうもある。この映画を観ながら、僕はそのことを何度も考えていた。

井上さんが待てたのは、音に急かされなかったからではないか、と思う瞬間があった。虫の羽音も、電車の音も、彼のところには届かない。だから、長いあいだ同じ場所に身を置いていられる。映画のなかで、ろうの方がそう証言していた。

ただし、ここは慎重に書いておきたい。

耳が聞こえないから優れた写真が撮れる、という単純な話にはしたくない。身体の違いを才能の物語へ安易に回収してしまうと、その人が実際に生きた困難のほうが消えてしまう。

それでも僕は、こう感じた。

井上さんは、聞こえないことを、足りないものとしてだけ抱えていたのではないと思う。自分なりに世界を楽しみ、世界へ関わっていくための、自分の身体のあり方として引き受けていた。少なくとも、彼の写真はそう語っているように見えた。

そして、この映画にはもうひとつ、心に残ったまなざしがある。

撮った人のまなざしだ。

ルメーヌ監督は、母方の祖父母が聾者で、十二歳ごろまで手話で家族と話していたのだという。以来、二十本を超えるドキュメンタリーを、ろう者の歴史と文化について撮り続けている。

その彼女のカメラは、ろう者の世界を外側から説明して、分かりやすいものに変えようとはしていなかった。

自分にはどうしても届かない家族の経験や感覚がある。それを引き受けたうえで、それでも知りたい、近づきたい、理解し続けたいと願っている。そういうカメラに見えた。

人はもともと、理解しえない存在なのだと思う。

他者の痛みも、沈黙も、喜びも、その人が見ている世界も、僕たちは自分のものとして完全に所有することはできない。

だからこそ、理解しようとする行為のほうに意味がある。分からないことを理由に距離を置くのではなく、分からなさを抱えたまま、相手に問いかけ、耳を澄まし、関わり続ける。

その場所に、愛が生まれるのではないか。

監督が家族の気持ちを知りたいと願うことは、相手を「分かった」と言い切るためのものではないと思う。分かり切れない相手を、それでも大切な存在として尊重し続けるための営みなのだと思う。

理解は、愛の到達点ではない。

理解できなさを前にしても、なお理解したいと願い続けること。その終わらない姿勢そのものが、僕には愛に見えた。

映画は、彼の晩年に触れて終わる。

再発見された段ボール五箱分のネガが評判を呼び、フランスのアルルの写真祭から招待状が届いた。写真の聖地と呼ばれる場所だ。

そのとき彼はもう病床にいて、招待状を枕元に置いて、大変喜んでいたという。

祭りの直前、一九九三年の八月に亡くなった。七十四歳だった。

観終えて、いちばん残っているのは、彼の肖像ではない。

彼が待って、見つめて、写した子どもたちの笑顔のほうだ。

その笑顔は、貧しさや時代の厳しさを消してしまう笑顔ではない。そうした条件のただなかで、それでも生きることを引き受けて、いまこの瞬間を全身で肯定している笑顔に見える。

音のない世界から彼が向けていたまなざしは、被写体を説明し尽くすためのものではなかったのだと思う。

分かり切れない他人の生に、少しだけ近づいて、その一瞬の輝きを待ち受けるためのまなざしだった。

その子どもたちの写真を見ていると、笑い声が聞こえてくる。

音の届かないところにいた人の撮った写真から、音のほうが立ちのぼってくる。

たぶん、待っていたからだと思う。

待っているあいだに、その場の時間が写り込む。時間が写れば、そこにあった音まで、一緒に写る。

待つこと。

映画の最初の章の題は、やはりそれでよかったのだと思う。


Photograph by © 2026 Kazutoshi YAMAGUCHI. All rights reserved.

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山口 和敏

熊本を拠点に、テレビディレクター・ライターとして30年以上活動。 2019年、希少がん「上顎洞がん」で余命6か月を宣告される。抗がん剤、放射線、14時間におよぶ手術を経て右目を失ったが、「どうせなら楽しんでしまおう」と開き直り、ブログとYouTubeで発信をつづけている。現在は動画制作コンサルおよびビジネスコンテンツライターとして活動しながら、がん患者の「仕事と治療の両立」や前向きな生き方を届けることをライフワークにしている。片目になってからLeicaを手に取り、光と影の中に生きる力を探す写真家として、もうひとつの表現を歩み始めた。失ってはじめて、世界の"本当の表情"が見えてきた気がしている。病気になっても、失っても、人生は終わらない――その希望を、誰かに届けたい。

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