余命半年を告げられたとき、思い残すことがないようにしようと思った。そして、そこで挑戦を始めたのが、写真だった。
20代のころ、僕は写真に熱中していた。ファインダー越しに世界を見るのが楽しくて、時間を忘れてシャッターを切った。けれど、仕事が忙しくなるにつれ、やむなく写真から遠ざかってしまった。それから会社を辞め、自分の会社を立ち上げ、仕事中毒のような日々が続いた。いつしか、写真の存在すら忘れていた。
2019年にがんを宣告されたとき、人生があと数か月しか残されていない可能性が高いと言われた。最初は途方に暮れたけれど、やがてこう思うようになった。
「今この瞬間こそが、人生のすべてなのだ」と。
そうなると、僕にできることは「書くこと」と「写真」だった。ずっと飯の種にしてきた動画ではなく、なぜか静止画に強く惹かれた。今の自分を表現するには、写真という形がしっくりきたのだ。
「どうせもうすぐ死ぬのだから」
そう自分に言い聞かせて、後先を考えずに高級カメラを購入した。このとき、もちろん連れにも相談したのだが、「何を迷うことがあるのだ」と逆に不思議がられた。こういうところが、とても素敵だと思う。
モノクロが僕の世界を映し出す
写真を再開して、ひとつ実に興味深いことが起きた。
自分の写真は、モノクロだと感じたのだ。
もちろん、僕の目にはこの世界がカラーで見えている。けれど、モノクロで撮影した写真のほうが、自分のいる世界を極めて忠実に再現しているように思えた。いや、それだけじゃない。モノクロ写真には、自分の内面までもが写し取られていると感じたのだ。
写真家の中には、モノクロ写真の魅力をこう語る人がいる。
「色がないからこそ、光と影が際立ち、被写体の存在が浮かび上がる。そのものの本質が表現されるのだ」と。
僕にとって、モノクロ写真は単なる表現手段ではない。むしろ、カラー写真よりもずっと雄弁で、そこに写っていないものさえ見る人に伝える、圧倒的な力を持っている。
「今この瞬間を残したい」 その気持ちがすべて
この写真は、市電の中で向かいに座る孫娘を撮影している老夫婦だ。
「今この瞬間をとどめておきたい!」
その気持ちに突き動かされて、二人は必死にスマホを構えていた。こういう姿を見ていると、人はなぜ写真を撮るのかがよくわかる。多くの人が、目の前の一瞬に恋をして、それを永遠にとどめておきたくて写真を撮る。そんな当たり前のことを、改めて気づかせてくれるシーンだった。
カメラを持って歩くと、目に映るすべてのシーンが魅力的に感じられる。そして、シャッターを切るたびに、「今ここに生きている」ことを実感する。
「じゃあ、モノクロの動画でもいいんじゃないか?」
そういう声が聞こえてきそうだけれど、それでもやはり、僕にとっては写真なのだ。
隣では、連れが静かに歩調を合わせてくれている。
彼女の素敵なシーンをいつも撮っているのだけれど、「もっときれいに撮れないのか。まったく。」と、まるで往年の大女優のようなことを言う。
「とても素敵なのに……」
そう言いながら、次の撮影プランを考える。
まあ、これも写真に付随する楽しいコミュニケーションのひとつだ。