キンカチョウのふくが、天国に旅立ちました。
我が家に“福”が訪れるようにと名付け、初めてお迎えした小鳥でした。
キンカチョウはスズメよりも小さい鳥なので、よく見なければわからないのですが、
ビーズ玉のような、ちっちゃな瞳はとても穏やかで、どこかおっとりとした雰囲気を漂わせていました。
ふくは、同種の小鳥のなかでは体格がよいほうで、5羽の元気な子どもたちを産み育てました。
どこか肝っ玉母さんのような安心感を与えてくれる子でした。
ゆっくりと、生と死のグラデーションを描くように弱っていき、
最期は、静かに、穏やかに息を引き取ったように見えました。
ベランダに深い鉢を置いて、埋葬し、イングリッシュラベンダーを植えました。
毎朝「おはよう」と声をかけると、ふくのさえずりのような、優しくて芯のある香りがかえってきます。
ふくが旅立ちの準備をしていたころ
ふくが旅立ちの準備をしているころ、私もまた「死」について考えていました。
これまでに、何度か“死”を間近に感じたことがあります。
がんの診断もそのひとつです。
リンパ節や背骨、肝臓への転移があり、
当時の主治医は、私に厳しい予後を伝えざるを得ませんでした。
もちろん、うろたえました。
ハワイにも行ってみたいし、小説のコンテストにも挑戦したい。
したいことはまだたくさん残っているのに、死んでしまうなんて――まだ早い。
でも私は、ひとつのことをあまり長く考え続けられない性格で、
すぐに「まあ、まいっか」と開き直ってしまうんです。
この“開き直り”を、かっこよく言えば「受け入れる」ということになるのかもしれません。
井筒俊彦先生の言葉
「死」について書かれた文章で、私が好きなものがあります。
敬愛する井筒俊彦先生の著作の解説にある一節です。
私が生まれる前も、死んだ後も、生命の営みがつづくかぎり世界はずっといま・ここで・現に姿を現しつづけて来たし、これからもそうでありつづける。私の死は、たまたま特定の一人物がこうした世界の現出に居合わせなくなったということに過ぎない。(中略)すなわち、死は何ら怖れるべきものではない。精一杯生きて、安らかにかつての「昏き」(いまだ何かが何かとして明確な輪郭を以前の)次元へ戻って行けばよい。
『意味の深みへ――東洋哲学の水位』井筒俊彦・岩波文庫 解説:斎藤慶典
東洋哲学を学んでいるせいか、私は死自体をあまりネガティブに捉えることができません。
死ぬことも、生まれることも、世界における歴史の一部。
あらがったり、受け入れたりする以前に、そこに“あるもの”だと感じています。
ふくとまた巡り会う日まで
先に逝ったふくと、「昏き次元」でまた巡り合える日が、私はいまから楽しみです。